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概要

70年の航跡

私(宮﨑昭三)の世界一周乗船記青葉山丸資料提供株式会社商船三井昭和27年(1952年)4月、大学卒業後、船会社へ就職が決まる。一年間の陸上勤務を終え、昭和28年(1953年)6月に乗船研修(海上勤務)の指示を受け、鶴岡丸(油送船)に乗船、ペルシャ湾のサウジアラビアに向かい原油を積み三ヶ月後に日本に帰港。その後10月に貨客船青葉山丸(G/T8,000トンD/W12,000トン)に事務員として乗船、東回り世界一周定期航路に就いた。(乗組員数46名)横浜を出て3昼夜航行した頃から太平洋の大波にゆられて頭が”ぐらぐら”してきた。船内の何処に行っても治まらない。”船酔”である。先航タンカーに乗船した時には無いひどさである。それでも食事は取らねばと思い口につけるが、のどを通らない。ゲェーゲェーと吐くばかり。最後に吐くものが無くなって丁度乗船して1週間目に船酔いに慣れてきたのか、徐々に食事が取れる様になった。その後は逆に腹がすいて腹がすいて、1週間の絶食を取り戻す様に食べた。それを見た船長、機関長、一等航海士の皆様方は自分のことの様に喜んでくれた。最初の入港地はアメリカ西海岸の金門橋をくぐりサンフランシスコに入港。アメリカの広大な土地とアメリカ社会の高度な文明にふれ、こんな国と日本が戦争をしたのかと、ただ驚くばかり。同時に保有の外貨不足の為(1$=360円)上陸したものの、充分に買物が出来ずさみしい思いをしたのを覚えている。その後、ロサンゼルスを経て南下、パナマ運河を通過。大西洋を北上。キューバのハバナに寄港、出航して約一ヶ月後にニューヨークに到着。それより東海岸のボルティモア、フィラデルフィア、ノーホークへ入出港を繰り返しながら、その間は船内作業は多忙を極め、それこそ眠る間もない程であった。そして、いよいよ第ニ次航に就航、大西洋を横断、欧州へと向かう。欧州ベルギーのアントワープ、オランダのロッテルダム、ドイツのハンブルグ、ブレーメンハーフェン、フランスのルアーブル、マルセイユ、イタリーのジェノアなどの各港に寄港、上陸したがいずれの国も伝統と、文化の高揚を脈々と引継ぎ、アメリカの様なキラキラした輝きはないものの、計り知れない深遠な歴史背景に裏打ちされた確かな人々の生活をみた。日本は戦後9年目で、外航船の乗船勤務者は海外情勢が見られるのも特権であったと思う。その後、本船は積揚げを続け、地中海、アラビア海を経てアジアへ向かう。この間、約120日(北半球東周り寄港地20数港)航海を終え、日本の横浜に帰港したのは翌年の1月末であった。この2航海の乗船体験が、私のその後の人生において、困難に立ち向かう勇気と、知恵と、気概とが培われ、会社経営の基本となるべき船舶の安全運航の徹底に、どれ程役立ったかは計り知れない。以上20